映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 島田裕巳さんの『映画は父を殺すためにある:通過儀礼という見方』を読む。
 『魔女の宅急便』を論じている章が特に興味深かった。キキは成長できたの?ジジとなぜ話せないままなの?という点がテーマとなっている。
 僕は、ジジは一種の移行対象だと解釈していた。つまり「ぬいぐるみ」であり「ライナスの毛布」だ。
 「ライナスの毛布」とは『スヌーピー』に登場するライナス少年が手にした毛布のことで、初期は慣れ親しんだところから引き離され、他の世界へ移行しなければならない通過儀礼時に、その手引きをし、移行後、新しいコミュニティに属したその同じ人物から今度は「幻滅」される役割を果たすといわれる非常に哀しい存在なのだ。大事にしていたぬいぐるみやおもちゃに急に興味をなくしてしまう、それは故意ではなく唐突な「訪れ」である。しかし、そこで「成熟」が果たされ、次の集団へ参加するための準備が整うと言われる。
 一人新しい街に移り住むその孤独を代替してくれるのが、ジジとの慣れ親しみであり、しかしそれは実は「成熟」への足かせだったため、ラストで街の人になったキキは無意識的にジジとの慣れ親しみを棄却した、その結果として話せないままなのではないか?と僕は思っていた。でも、よく考えるこれはおかしい。だって、ジジと話せなくなったのは「成熟」が果たされたと同時期ではないから。
 ジジとの慣れ親しみを唐突に喪失した事実はこの上なく切ない、切なすぎるゆえに、「なにがキキにとって成熟なのか」というテーマの描写を「切なすぎる喪失」を前面にだすことによって回避しているのではないか? おそらく島田さんはそう言っておりまさしくそうだとおもう。ただし、かつて、移行対象とのあいだではだれもがキキのように「魔女」だった時代があり、その対象への「興味の喪失」をあれほど感覚的に鋭敏に描写した映画はほかにない点は称賛に値するのではないかと思う。