サーフィンと聞いて連想するのは常にブライアン・ウィルソンであり、ビーチボーイズのフロントマンなんだから、この回路は実にありきたり。
 ブライアン・ウィルソン自身は、あんなサーフィンの唄ばかり歌いながら、サーファーガールを賛美しながら、実はひきこもり気味であり、要するに倒錯していた。陸サーファーとも少し違う。というのも、彼は典型的なホワイトトラッシュの家庭で育ち、父親との懸隔を常に抱えていた。根暗である。なぜ根暗が、あれほどまでにサーフィンと西海岸の太陽と砂浜を賛美するのか考えてみてくれ。ようするにニヒリズムとはそこにある。ニヒリズムは一般的に「冷めた態度」のことをさすように考えられているが違う。究極のニヒリズムは究極に肯定的な態度で、福音的なものだと感じる。それはなんでもありで、たとえば「女であればだれでもいい」といういけすかなさと紙一重になほどファニーでナンパでそして暗い。実は暗いのではない。あくまでナンパで暗い。
 次に思い出すのは『ビッグウエンズデー』なわけだけれども、このサーフィン反戦映画と対をなすのが僕の中では『地獄の黙示録』のメコン川での爆撃サーフィンで、近いうちに見比べてみたい。
 その次に思い出すのは、やはりホワイトトラッシュ&カチーノ達の『ロード・オブ・ドッグタウン』だった。実はブラックサバスに乗ってスケボーしているのがメインな映画だけれども。
 そういえばクラクソンズに、虚無をサーフィン(boid なんたら surf)という感じの唄があり、海面はやはり砂漠であり、僕らの旅の行先は砂漠か森しかないのだから、サーフィンをしたらいいんじゃないか。