Mommy⭐️⭐️⭐️⭐️

※ネタバレ注意

冒頭、シングルマザーのダイアンは、施設に預けている一人息子スティーブが、放火の末に入所者に怪我を負わせた、との連絡を受ける。父親(ダイアンの夫)が亡くなった頃にADHDを悪化させたスティーヴは、以来ずっとこの施設に入所していたようである。このまま預けていると、施設側の判断でさらに非人間的な措置が取られると悟ったダイアンは、スティーヴと一緒に暮らす決意をする。そんな母親に施設の職員は、スティーヴのように、過度の暴力傾向を見せるADHDの子供を家庭で育てるか否か、それは愛の多寡の問題ではない、と諭す。新しい法律、S-14法だってあるのよ、と。S-14法とは、この映画の舞台となる架空のカナダで今般施行された新法で、「発達障がい児の親が、経済的困窮や、身体的、精神的な危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し、施設に入院させる権利を保障したスキャンダラスな法律」のことだ。それを聞いて母親は「とんでもない!」と声を荒げる。職員の言う「愛で解決できないものもある」という考え方、それは一面では、境遇を同じくする多くの親が、辛く、孤独な実践のうえでやっとの思いで勝ち取った解放的な理念なのかもしれないが、ダイアンはそれを即座に拒否して、スティーヴとともに施設を後にする。
退所後親子の生活は、やはりというべきか、上手くいかない。スティーヴの善悪判断は二の次の愛情表現はダイアンから当然拒絶される。そうすると、途端にキレて歯止めの効かなくなる。喚き散らし、本気で母の首を締めだすなどする始末。二人の生活はこのように常時綱渡りめいてくる。折悪くダイアンは仕事まで失ってしまう。やはりスティーヴを引き取ろうとすること自体甘かったのか。途方に暮れていたそんな折、向かいに住むカイラという女性が二人の世界に偶然に足を踏み入れ、それをきっかけとして、不思議なことに親子関係は快方に向かっていく。休職中の教員であるカイラは、生徒からイジメを受けたトラウマから吃音を発症しており、夫はそんな彼女を扱いあぐねている様子。そんなカイラに対しスティーヴはというと、夫とは逆に、彼女の吃音を遠慮なく面白がる態度を取る。真似をしてからかい、しかしそれでいながら「君は今のままでセクシーだ」などと言ってみせる。この自由な表現、距離感の狂ったコミュニケーションに、カイラは今まで見せなかった笑顔を見せ、ときには本気でスティーヴに怒りをぶつける。このことにより、驚くべきことにまずはカイラが「治療」されていく。スティーヴにいたっても、カイラの目があることによってダイアンへの愛情表現が過剰にならず、また、ダイアンに叱られても、カイラを自陣に引き入れ戯言で応酬するなど、母との関係性に遊びが生じ、結果、暴力的行為も抑制されていくことになる。堪え性が身につき、学習意欲すら兆す。ダイアンも、そんなスティーヴの変化に後押しされながら、虚飾なしに自分を晒すことができるカイラという話し相手を得たことで、掃除婦として働く毎日ながら、表情がだんだんと明るくなっていく。仕事をこなし帰宅後はスティーヴとカイラと夕餉を囲む。食卓では皆が至福の笑みをたたえている。そんな夢のような日々が奇跡のように立ち現れる。
しかし、そんな三人の日々は、波打際の砂城のごとく、ある書状が届いたことをきっかけに崩れ始める。結局、母はS-14法を適用し、子を施設へ引き渡すことを選択する。「三人でハイキングにいきましょう。」と嘘をつき、旅の途中、エージェントたちによって、力づくでスティーヴを捕獲させる。事態に気づいたスティーヴはなりふり構わず暴れ、男たちもがそれに応酬する。殴打されるスティーヴを見て「入院は取り消すわ!」と泣き崩れるダイアン。しかし、次のシーンでは、スティーヴは施設の中で拘束着を着せられている。ダイアンは入院を取り消さなかったのだ。
この出来事があったのち、ダイアンとスティーヴは、もはや以前のような「母と子」に後戻りすることはできない。
母は、S-14法の適用を示唆する施設の職員に威勢良く、愛を貫くと啖呵を切った。しかし、結局職員が提案した通りの結果になった。母はこのことにこれ以上ないほどの罪悪感を感じたはずだ。その罪の意識は、今後の母の人生を暗く自罰的なものにする。そう考えるのが普通だろう。
しかし、母は事件の後、自身の「罰」や「絶望」を語るのではなく、むしろ「希望」を語りだす。自分は「希望を選んだ」のだと語るのだ。
息子を引き渡す直前、彼女が夢幻した、学業を修め、結婚し子も生まれるスティーヴ、そしてその人生に寄り添うダイアン。確かにそのような未来は見果てぬ夢となった。そのようにスティーヴの人生に寄り添うことはダイアンにはもう許されていない。しかし別の「希望」があると母は語る。この「希望」はまだ、極めて小さな可能性としてあるだけなのかもしれない。空虚なものに過ぎないのかもしれない。しかし、母のこの「希望」の強度に呼応するように、スティーヴは拘束着のまま駆け出す。このラストシーンの呼応関係には、以前とは全く別ものに変質したものの、やはりこの二人の母と子、その愛、としか言いようのないもので溢れている。