『来るべき民主主義』

 僕は難しい本を読むのが苦手で、というかろくすっぽ理解できないのに小難しい本を読んでしまう傾向があり、そのため、どうしても途中で読むのを諦めてしまうことが多いのだが、とりあえず、わかるわからないは別として、最後まで諦めずに読んでみるということを最近は心がけている。
 そんな今読んでいる本が山口昌男氏の『道化の民俗学』なのだが、この本はまさしく、情報が多すぎるタイプの難解な本である。
 ちょうど半分くらい読んだのだけれども、だんだんとのぼせてきてしまって、読み進めるペースも牛歩の如く遅くなってきた。
 そういう時はどうしよう。そうだ、これまでのように別の本に手を伸ばすのではなく、過去に読んだ本の感想をまとめるというのがいいのではないか、それこそが、悪癖となってきた上滑りするような読書経験を革新するいい方策ではないか、と思いついて、今この文章を書きつけているところだ。
 
 その過去に読んだ本とは、ちょっと前に読んだ國分功一郎氏の『来るべき民主主義』。
 
 実を言うと、僕自身、立法権は議会にあるのだから、市民はちゃんと選挙権を行使して意思を議会に伝え、それでもって公的問題解決に参画すればいいではないか、公務員をやみくもに叩く(バッシングする)人たちはそれゆえにお門違いだと少なからず思っていた。でも、その政治意思を伝えるためのメディアとしての議会が十分に機能していないという「政治の腐敗」という問題とは別に、行政がそもそも市民の政治意思を歪曲してしまう特徴が多分にあるのではないかしら、という至極まっとうな真実にこの本を読んで気付かされたわけである。

 政治とは、(アーレントの「活動」概念と対応する<人間の条件>としての多数性からもたらされる)「多と一を結びつける困難な営み」であるために、その起源性に起因した困難がどこまでもつきまとう(それゆえシュミットの政治=友/敵理論が説得性をもって語られてきた。)。そして、法による支配という一つのモデルを作り上げ、立法権統治権として位置付けできたこれまでの政治理論の流れがあるがあるのだが、この現体制=議会制民主主義の下でも機能不全と主権者であるはずの市民の不満感が尽きない。

 それは、やはり、実際の政策決定が行政で行われている、行われざるを得ないという理由によるものだろう。行政は法解釈と法適用をすることで実質的に政策を決定している。それは行政が悪意をもってそうしているということではなく、法の支配の体制上の限界である。
 
 であるからして、著者の結論はこうだ。政策決定過程に、市民の意見を反映させる仕組みをたくさん埋め込むこと。それは説明会のような田舎芝居ではなく、ファシリテーター(自由な発話主体による議論を前提とせず、皆が議論について不自由であるということを前提として、熟議を促進する存在)を設置して、住民と行政が話し合い政策を決定っする場を多数作るということ。もちろん住民投票のような意思表明の手段も大いに活用されるべきである。

 このような認識は非常に有益だと思う。特に行政府で働く者にとっては。

 それ以外にも、本書で示されているように、本当に社会を変えたいなら、「自民党の人たちとだってつきあう」「ツールとしての政治家」を通して、意見を立法に伝える、という心構えがあるかないかが、住民運動の成否を大きく左右するものだという視点は非常に重要だろう。
 
 「私たちは年をとりました、あなた方は年をとらないけど」という、長年道路計画に反対し行政と折衝してきた住民が、数年ごとに変わる行政職員に対して述べた言葉はとても胸に突き刺さるものだ。