昨日の記事。クリスマスに深夜のツタヤでゾンビ映画買ってるというのはないな。あえて弁明しますが正確には23日の夜ですよ。
 閑話休題
 以前テレビで観た『アイ・アム・レジェンド』を観た。ネットで検索するともうひとつのエンディングがあるそうで、その場合だと作品の解釈がまったく異なるのだそうだ。リチャード・マシスンの原作にもともとのエンディングは忠実だったのだと。
 荒木飛呂彦先生がこの映画をほめていて、特に前半を絶賛していた。
 僕も前半にはやられた。ウィル・スミス演じるネビルと犬サムで鹿を狩ろうとところどころコンクリートがひび割れてブッシュが生い茂って原野化したNYをスポーツカーで疾走するシーンは凄い迫力。都市が凋落し野生が回復して良かったね的な(核戦争後の共同体の風景に通じるような解放感をも孕んだ)ユートピアがそこでは表現されていた。
 結局、鹿狩りの成果はないまま帰宅し、心を通わせるように会話しながら浴槽でサムを洗う。BGMはボブ・マーリーの「三羽の鳥」という楽園ソングで、秒単位で肌を焦がすような陽光が照りつく南国のリズム。このSUNSETのひとときをみると、ネビルの生活って孤独だとしても決して捨てたものではないだろう?と思えてくる。
 しかし、幸福なひとときに突如として終わりを告げるのはネビルの腕時計のアラーム。それは、NYの領野をダークシーカー(Dark Seeker)に引き渡す時間が来たことを告げるもの。ネビルは窓を厳重に施錠し、サムとともに水のない浴槽で怯えるように体を丸めて眠る。ボブ・マーリーの存在と歌は昼の安堵と陽光の快楽を象徴している。それと対比されるのが、闇に巣くうダークシーカーと夜に外界から聞こえる不気味な叫びや呻き声だ。
 ちなみにダークシーカーは感染症によって人間が突然変異したミュータントで、紫外線に異常に弱く、凶暴で人を喰う者たちのこと(ヴァンパイア+ゾンビといったところか)。上記の理由から紫外線を避けるため闇を好み暗がりに生息しているが夜は街を闊歩している様子。
 ここで思うのは、ネビルのように闇夜の獣(ダークシーカー)の跫音に怯えるというのは、原野では当たり前のことではないかということ。原野というのは喰うか喰われるか世界なのだから。そして、古来から夜の内は獣に対して人間の分が悪い。その人間にとっての夜の脅威が獣からダークシーカーにとって変わったからといって、それがどうした。大いにびくびくするがいい。それに、たとえば鹿猟という、狩猟民が獣を追い詰め命を奪う快楽と慄きの純粋な虜になってしまったネビル(ネビルはシカ肉を喰っているのか?否!)の驕慢を押さえつけるためにはむしろなくてはならないのが「夜への恐れ」だと言える。 
 このように考えると、ネビルの原野人としての未熟さ・卑小さが目に余る。確かにたった一人だから仕方がないのかもしれないが。
 そして「闇を光で照らそう」という言葉にあるように、この映画でも光と闇の対比が重要なモチーフになっている。しかしマニ教的にもそうらしいが、光と闇の共存のバランスが崩れるのが一番いけない。マニ教では闇が光を境界侵犯し飲み込もうとしたようだが、本作ではネビルがびくびくした末に境界を侵したのだった。具体的には、暗がりから実験のためとはいえダークシーカーの女性を引きずりだした。それがいけなかった。
 だから、やはり結末としてもう一つの結末(マシスンの結末)が正しい。その結末のまま、ボブ・マーリーというディティールをうまく生かしていれば(それはボブ・マーリー的な楽天性をもう一段上の高みで解釈しなおすような意味で、だ。それはもしかしてラスタファーライにも関わってくるものかもしれない)単なる「ポスト人類モノ」の射程をはるかに超えた傑作ができたんじゃないかと思われて惜しい。
 まあ、恐怖映画としては結構楽しめた。サムが鹿を追って誤ってビルの暗がりに入り込んでしまって、そこがダークシーカーの巣穴で、額に脂汗をにじませながらネビルがサムを探しに入っていくシーンはかなり怖い。ダークシーカーが群棲しているように闇の中で輪になって肩を上下させている光景がサーチライトで一瞬照らされて見えるところとか。
 あとは自分で動くわけのないマネキンがあらぬところにあって、恐慌をきたしたネビルが銃を摩天楼にぶっ放すところとかはすごくいいね。

アイ・アム・レジェンド 特別版(2枚組) [DVD]

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 大学時代に買いそびれていた本がほしくなった。
レゲエ・トレイン―ディアスポラの響き

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