今年を一文字で表すと「絆」だという年の瀬を飾るニュースの後に、NHKの「クローズアップ現代」を見て慄然とした。

 現在の商品経済が生み出す大量の廃棄物を効率的に圧縮する高度な焼却技術。

 廃棄物はなくならない。消すことはできない。できることはどこかに除けることだけ。そんな単純な事実。でもそのことを考えずに日々やり過ごすことを可能にしていたのがこの高度な技術だったわけだ。この圧縮技術のおかげで、ゴミ問題の解決は遠い未来に先送りにされてきた。

 しかし、その集積-圧縮の技術が、同時に放射能も圧縮強化する魔術になったということがそこで指摘されていた。これが都市(型)濃縮だ。放射線量は、廃棄物の量にかかわりなく在り続けるというストレートな現実。廃棄物が空間的に圧縮されて、放射線量はそれに伴って増幅する。だからたとえば柏市の焼却場の作業員はみな防護服を着ているのだそうだ。

 気流や海流、それが生み出す雨。それらが大地を移動するとき、どうしても淀んでしまう場所というのがある。川の淵のようなもの。それは極めて自然ななりゆき。だかた大気中の放射能がそこに集まる。これまで語られてきてそして恐れられてきたのは、主にこの意味のホットスポットだったといえるだろう。だけど、同時にこれは自然エネルギー放射能を大いなる力で祓い清める現象と表裏一体だった。
 だけど都市濃縮は、人間の生産消費の回路が生み出した極めて人工的なホットスポットだ。それは現代の社会の閉塞を鋭く抉り出しているように思える。
 番組は伝える。濃縮された放射性廃棄物(を入れたドラム缶)は行き場を失い、現在は処理場内に保管されていると。それも本年中にはいっぱいになるのだと。


 津波に飲み込まれた沿岸地域に住む、たとえば漁業を生業にしてきた民が、津波のおそろしさを目の当たりにしながら、それでももといた場所に住むことを決意する。あるいは、恵みをもたらす海にもう一度漁に出る。それは、猛威をふるった大地ともう一度絆を結びなおすことだ。
 それを邪魔する邪悪なもの。それが原発であり放射能ではないか。いつしか僕は自然とそんなふうに思うようになっていた。大地と僕らの間に傲然と割り込んできた目障りな闖入者が放射能だと。
 しかし、都市濃縮という現象は、それを伝えるニュースは、僕に「そうだろうか?」と内省を迫る。
 人間どうしの「絆」と同時に、土地との「絆」を回復しなければならない。そのための方法を、困難ではあるが探していきたい。そういったときに学ぶべき叡智というのは自ずとこういうものではないか?という「こういうもの」を僕は志向している。

人間が人間関係において生きていることは、いうまでもない。逃れがたい。だがそれをはるかに超えて、われわれはすべて事実として、物質的に、「土地」との関係において生きている。