ポトスライムの舟 (講談社文庫)

ポトスライムの舟 (講談社文庫)

 出張で高速に乗り、パーキングでトイレ休憩。平日のお昼時のパーキングエリアは道の駅みたいなノリで、よく定年を迎えた夫婦が―――旅先から帰る途中なのか、もしくはこれから向かうのか―――楽しそうに時を過ごしている。それを見て「早く定年にならないかな」と口にした一緒にいた先輩の感慨は、おそらくまだ僕には無縁のようで、そこまで仕事に対してあきらめは強くない。
 しかし、いつまでこの日々を積み重ねて?と思うことは確かにある。それは仕事の内容が問題だとかそういったことではないような気がする。もっと根本的なものなのだ。
 だから、この小説にあるナガセの以下の心情には、素直に共感してしまうと同時に、その想いを見事に言葉にしてくれたことに感謝したくなった。

 働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分自身の生の頼りなさに。それを続けなければならないということに。

 そう、働くというそのことに強い不満を抱いているわけではなく、いまのようにそうせねばならない「自分自身の生の頼りなさ」こそが恨めしいのだった。この生活の持続が私の生を頼りなく、弱々しくしているように私自身に感じさせるものだから、

 維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが生活を維持して。

 と、自らの生の尊厳を保てない。
 ナガセはこのような「生」のなかで、このような「生」について考える。すべてがこのような「生」の有様に係累されている。
 そんなナガセの抱える現在のところ一番の妄念は「世界一周クルージング」のためにお金を貯めること。理由は、163万円という自分が工場で働いて一年間で手にすることができる給与の額とほぼ同じ費用を要するから。工場での時間がそのまま世界一周クルージングとイコールになるというこの等式。このシンプルさにくらくらするのは僕だけだろうか? そこには生活を維持することの煩わしさや頼りなさがない。非常にすべらかな輝きがある。
 もちろん、仕事が工場でのそれ一つの状態で、1年分の稼ぎすべて世界一周のためにつぎ込んだら生活していけない。だが、もともとナガセはヨシカの喫茶店や高齢者向けパソコン教室でのアルバイトをし、小銭を稼いでいる。そちらのほうで、生活を維持できる算段だ。生活は小銭で維持できる。
 1年分の工場での仕事=世界一周というイメージは、働く身体を維持するためのよわよわしい現実を吹っ飛ばしてくれる。そのために、ナガセはその妄念に執着するのであるが、同時に次のようにも感じる。

 生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している。そうでありながら、工場での生活のすべての時間を、世界一周という行為に換金することもできる。ナガセは首を傾けながら、自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分になっていた。いけない、と思う。しかし、何がいけないのかうまく説明できない。

 作中に登場する象徴的な植物、ポトスライムのものすごい増殖性や、「それを食べられたなら」と思う気持ちも、1年間=世界一周の等式と根のほうでつながっている。ポトスはこの等式のように、単純で力づよく独立自尊の体をなす。だから、それを食すことで、ポトスのあり方に自分の生も近づけるような感じがしてしまう。しかし、そんなポトスには毒があって、食べることはできない。ポトス的な生(植物的生*1)はここに至って挫折を余儀なくされる。
 かといって、救いがないわけではない。まず、ナガセがとても移り気なこと。また、ある想念を偏執的に温めるほど、ナガセは孤独ではない、周りがナガセを孤独にしないこと。
 日々の生活(の維持)が自分の生をより頼りなくさせ、それゆえに生活(の維持)の意味が薄れていくという円環。そこから少し、抜け出た気持ちになれるラストが用意されている。それがたとえ、より大きな環を描くだけだったとしても、その時頬を撫でるやわらかな風を僕もまた求めているのだ。

*1:植物的生についてはたとえば前田英樹の『独学の精神』を。そこでは稲を作ることで、その生の在り方に近づくことができるとされている。