ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 アマゾンのマーケットプレイスで安価だったので購入。そこそこおもしろかったがまとまりが悪い印象だった。

 ケータイ小説とはなんだ?
 まず、それを解くカギは「浜崎あゆみ」だと著者は言う。どういうことかというと、浜崎の特定の歌、多用するモチーフ(恋人の死やトラウマからの回復etc)、歌詞の文体というプラットホームの上にケータイ小説が成り立っているということだ。要するに、「浜崎あゆみ」をネタにした内輪ノリ。もちろんこれは批判ではない。
 特に文体に限って言えば、その特徴は以下の3点。
 1.回想的モノローグ
 2.固有名の欠如
 3.情景描写の欠如
 特に1について。回想的モノローグとは「物語がすべて終わった未来の視点から、ちょっと昔の出来事を思い入れを込めて回想する」(p52)というもの。これは、たとえば紡木たくホットロード』や矢沢あいの『NANA』での「吹き出しなしの語り」との相似性がある。ただし、『ホットロード』では、前方を走る無数のバイクのテールランプが夜にきらめく光景に、『NANA』冒頭導入部においては誰もいない洋室という風景に、回想的モノローグが吹き出しなしでのっかっている。このように漫画では、コマが語りによる情景描写のを代替・補完している(コマ=刹那、青春、喪失の心象風景)が、浜崎の歌は、もちろんそれが欠落し、非常に抽象度の高い文体になっている。そしてケータイ小説もそれは同じ。なにやらケータイ小説の読者は、情景を言語化されるととたんに萎えるらしい。「情緒が苦手」。それはまた相田みつを的な表現と親和的ということだった。
 で、本筋から離れるが、上記のように回想的モノローグで幕を開ける物語(歌)の多くは、「追慕的な感情と、自らそれを断ち切ろうとする意志の併存」によるコンフリクトを経て、忘れるのではなく「過去(あの恋)があるから今がある」と気づき、最終的には「今ここにある現在が一番大事」というように、なによりも現在を生きることを奨励する。これは極めて真っ当で間違いのない処世術には違いないのだが、浜崎あゆみの登場以降、これ以外に言いたいことはないのか、というくらいたとえばJ−POPの世界ではインフレを起こしている感がいなめないと思う。 
 話を戻すと、時間軸をさかのぼれば、浜崎あゆみ的なものとケータイ小説は、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけてのヤンキー雑誌の読者投稿欄と通じている。上記の特徴以外に、不幸自慢や男性との関係性のデートDV的な要素だったり、性意識の保守性だったり。
 そして、浜崎あゆみケータイ小説はヤンキー文化だという結論になるのだけれど、ヤンキーってなにかといえば以下のような特徴がある。

 ・反権威主義・不良とは限らない。
 ・ローカル性、上京という概念の欠如、「『東京にいかない』感覚」、「『電車に乗らない』感覚」、生得的な属性への思い入れの強さ。
 ・「早く成熟したい」というメンタリティ。「いつまでも遊んでらんない」感覚。「すぐに結婚したがる」感覚。(なお、この「子どもに見られたくない」という感情が非行に結びつくことがあるので不良と同義とされる場合があるだけ)。
 ・保守。
 で著者のいう若者たちの再ヤンキー化という傾向は事実だと思う。先ほど触れたような、回想的モノローグのメンタリティの横溢はその証左だろう。だから、ヤンキーという「族」をもっと研究しようという本書の提言はあまりにも正しい。今後の研究成果に期待したい。