東京出張

 金曜日に東京出張があり、もちろん日帰りの旅費しかでないのだけれど、金曜日ということもあり、まあじゃあ泊まるかということで、そのまま都内のビジネスホテルに宿泊(もちろん自腹だけど)、その夜は友人と新橋の立ち食いホルモン屋。
 翌朝は比較的早くに目が覚めたので、気になっていた恵比寿にある東京都写真美術館でやっているフィオナ・タン、岡村昭彦などのインスタレーション・写真などを鑑賞。10時半から13時過ぎくらいまでみていたのだけれど、やはりそれだけでは時間が足りなかった。
 岡村昭彦氏の写真展示「生きること死ぬことのすべて」。比較的最近に同じく報道カメラマンの沢田教一氏の伝記である『ライカでグッドバイ』を読んだけれども、それを読んだ個人的な感想は、写真家サワダのモチベーションの源泉には、「ベトナムの惨状を世界に発信したい」等という正義感ももちろんあっただろうが、そのような建前では雪げない妖しい野心、いや野心といってしまうには余りにも過剰な「何か」があったということ。それと比較すると、岡村氏の展示から受けた印象は、この人はそういった「業の人」というよりは、スマートな知性派であり、各時代毎に自身のテーマを進(深)化させていき、それを追い求めて世界を飛び回り、待ったなしの現実にカメラを向けていた、ということ。そのパワフルさには脱帽せざるを得ない。でもやはりこの人も、IRAの写真を撮るために、アイルランドに移住しているんだから半端じゃない。ビアフラ独立戦争についての写真等は初めて見るものが多く、とても貴重な体験だった。
 フィオナ・タンの展示は、1997年の『興味深い時代を生きますように』をメインに鑑賞。このドキュメンタリーは、フィオナ・タン自身が、インドネシア華僑の父と、オーストラリア人の母のハーフという、非常に境界的なアイデンティティを抱えざるを得ない生い立ちであるため、「自分は中国人なの?西洋人なの?」という問いの答えを求め、世界各地に住む父方の華僑の親戚(これがまたとても多い。いとこ何人いんねん!というくらい多い。)に片っ端から会いに行きインタヴューするというパーソナルな青春ドキュメンタリー。中国はご存知のように宗族(父系的な親族集団で、その紐帯がものすっごく強いやつ)が一つの堅固な社会構造として存在しているので、一族が華僑として世界中に飛散したとしても絆は決して潰えない(同じ名字だとすぐに仲良くなる等。)とは聞いていたものの、本当にそうなのだなとこの映画を見て改めて強く感じた。華僑というのは、本当にディアスポラという言葉がビッタリで、文革のときにはスパイ容疑をかけられる等、本国での不遇な歴史もあり、彼(女)たちのナショナル・アイデンティティというのも、例によって非常にこんがらがったものなんだなと思う。
 ドキュメンタリー自体はとてもよくできていて、西洋人にしてはモンゴロイド的な要素が強い自身の容姿に対する、女性ならではの視線とか、そのことについての姉との会話、あるいは、セルフポートレート的というか記念写真的シーンのの映画への組み込みのうまさを感じた(万里の長城での、中華系のいろいろな人のあとに、フィオナ自身が、その容貌とともにカメラ目線で映り込むシーンとかはいいね。)。
 それで、とうとう、村の人の性がみんな「タン」であり、父の祖先が代々くらす中国の村を見つけ出して、そこを訪れ、祖先が祀られている霊廟の前で村の人々と記念写真を撮るシーンがあるのだけれど、そのばつが悪いような、哀しくもユーモラスで間延びした情景は、だれのルーツ探しにも当てはまる「おかしみ」とか「際限のなさ」みたいなものを感じた。
 「文化はいつも宮廷であり牢獄だ。」

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