映画についての駄文4

 この映画は、ある老いさらばえた農夫が、過去のトラウマ囚われセックスに依存するようになった娘に、ハートを込めて施すエクソシズムについての映画である。ただしここで言う「エクソシズム」とは「誰かに向けて厳かに切実に呼びかけること」というその原義に基づいている。だから、必ずしも悪魔払い(だけ?)を意味しない。
 題名の「ブラック・スネーク・モーン」とは、主人公の元ブルースマンで今は農夫のラザラスが、物語の中盤でアバズレとして町でも有名な娘レイにあるいは自分自身に向けて歌うブルースの曲名。それはこんな歌だ。

 黒ヘビが部屋にいる
 黒ヘビが俺の部屋をはっている
 お願いだママ
 早く黒ヘビを捕まえてくれ
 黒ヘビは不吉だ
 俺に見えるのは黒ヘビだけ
 黒ヘビは不吉だ
 俺には黒ヘビしか見えない
 朝目覚めると
 黒ヘビは俺の上にいた

 スネークというのはいまやすっかり悪者で、キリスト教ではアダムとイヴを唆した存在だからなおさらのこと。また「蛇蝎のごとく忌み嫌う」という諺にあるように、日本でも例外ではない。
 しかし、ヘビに唆されて知恵の実を食べたことが単に喪失を意味しないように、この映画の「黒ヘビの呻き」とは永遠に解決しない葛藤の形象化である。そして重要なのは、この「永遠に解決しない葛藤を形象化する」ということそれ自体が、すなわち「究極の癒し」だというこの映画の構えだ。それはホメオパシー的両義性ともいえる(=ヘビの両義性)。だからヒロイン・レイの葛藤は、尾籠な話であるとしても「セックス依存症」という快楽への欲望と苦痛、それにトラウマを孕んだものである必要があった。
 「ブラック・スネーク・モーン」が、猿のようにヤリまくる娘を監禁すべく取り付けられていた鎖を、「人生は一度きりだ、好きなように生きればいい」と説きながら取り外した後に歌いだされることに注意しなければならない。
 葛藤を形にし畏れ敬い飼いならすこと。それはブルースに限らず歌のそもそもの機能なのかもしれない。
 だから、ラストシーンでレイが頭の中で思い浮かべる「鎖が私を強力につなぎとめている」というイメージは、抑制と解放のあいだで一喜一憂し永続的にドリフトしていく運動体としての私たちの心に鋭利に喰い込んでくるのだ。

ブラック・スネーク・モーン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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