好きな作家の一人である津村記久子の小説『八番筋カウンシル』は地元青年団とそれに疎ましさを感じる三人の若者の話だが、その三人のうちの一人である、小説の新人賞受賞を機に会社を辞めたタケヤスの言葉にこんなものがある。正確にいえばそれは幼少期のタケヤスが自室で物語の創作に耽っている時に外(=八番筋商店街)から聞こえる、今まさに飲み屋からでてきた酔客どうしのバカ笑い、楽しげな調子を耳にして感じたことについての言葉である。
「大人になれば、自分も他人や酒がなくては幸せを感じられなくなってしまうのだろうか」
 幼少期にこのようなことを感じた者は、おそらく大人になってもいまいちそれだけでは幸せを感じられないように成長する可能性が大きい。

 また、恩田陸のまじめな読者ではないが、その著書の帯に「映画や本や音楽があれば幸せだった学生時代」というような言葉があったのを書店で見かけた。まさしくそうだったと思う。
 
 ここしばらく、facebookに主軸を移していたが、そこはフェスティバル=イヴェント過多な世界で、僕に閉じることを受け付けてくれない。人とつながればつながるほど、閉じこもることが難しくなった。
 
 酒宴においては、当たり障りのない(最大公約数的な)話をして、僕は酔った振りをするだろう。投げやりに酔ってみて、後で自己嫌悪になるのがオチだ。昼間の素面の日常についてではなく、今目の前にあるこの瞬間をやり過ごすために酒を飲むというのはよくない。
 
 世界を肯定的にとらえるためには、否定性の芽を生み出すと予期される場所に近づかないことである。それがリベラリズムということか。

 『八番筋カウンシル』は危険な子どもたちの話だ。

 彼らはもちろん自分の生まれ故郷を自動的には愛せない。

 それは愛の変奏であるときれいごとは言わない。忸怩たる感情を受け入れない郷土は郷土ではないだろう。
 
 あと、ヴァケーション=トラヴェルではない。ヴァケーション=フェスティヴァルでもない。
 
 無理はするなと、自分自身に言いたい。

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

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八番筋カウンシル

八番筋カウンシル