『ニュー・ワールド』

 私が偏愛する映画です。テレンス・マリックの作品だということで、興奮を感じない人にとっては極めて退屈な話なのかもしれないですが。
 この映画、イギリスからの清教徒が入植しだした、合衆国建国以前のアメリカが舞台なわけですが、そもそもテレンス・マリックが当時の入植者の物語を描いたのはある意味必然だった気がします。内田樹さんはこの当時の入植者=清教徒たちについて、『街場のアメリカ論』の中で以下のように記しています。

そもそも宗教的な理想郷を作るためだけに故郷を捨て大西洋を渡って未開の原野を植民するというのは、相当に「観念的」なタイプの人々であると考えられます。

 テレンス・マリックの映画にはどうしてもこの相当に観念的なタイプの人が登場しなくてはならないのですから、まさにぴったりの時代背景というわけです。
 そして、本作の主人公、ジョン・スミスは、単に観念的なタイプなだけではなく、どうしようもないニヒリズムも抱えています。入植者同士の権力争い、新しい土地ゆえに、少しでも自らのパイを最大化しようとする打算的な仲間に、終始冷めたまなざしを送り続ける人物なのです。当然、周囲から彼のそんな態度は煙たがられます。そして同じ仲間であったはずの入植者に、能力があるだけに干されることになります。そんなスミスの眼に、原住民の社会はどれほど平和的に映ったことでしょう。というところでテレンス・マリックの自然描写が活きてくる。
 しかし、過度に観念的な人間は、一人の女性を愛することにかけては非常に不器用だ、というものまたどうしようもない真実。ジョン・スミスはポカホンタスを唯の女性としては愛しきれません。いわばスミスとポカホンタスの恋は、巨大な歴史が一時的に用意したシュチュエーションゆえに盛り上がったといえる。それと対照的に、クリスチャン・ベール演じるのジョン・ロルフはその意味では無垢。それゆえにポカホンタスを唯の女性として愛することができたといえます。
 ジョン・スミスにかかった恋の魔法が解けるの同時に、アメリカの自然の霊性が喪われていく。この喪失感を一身に背負ったもぬけの殻のポカホンタスと、それに寄り添うジョン・ロルフ。あまりにも完ぺきな構図。