いや、議論についていけない部分が多かった笑 序数的効用とか忘れていましたよ。
 最近はやりなんですね政治哲学。飯時、NHKの「MJ」って番組でAKB48トークが非常につまらないので、教育番組にチャンネルを合わせたら、日本版白熱教室?が小林教授(サンデルの訳者)によって行われており、ちょっと見ていたら、自己責任とかベーシックインカムとかリバタリアンとか功利主義帰結主義とかノージックとかいっていて、面白かった。でもあんな少人数で、テレビの前で議論する勇気、学生の頃の自分にはなかったなあとおもって、現役学生らしき人には感心しました。
 ただ、一つ疑問があって、私の習ったリバタリアンって、たんなる自己責任論とうわけではなくて、行為の責任が自己にしか帰結し得ないような社会を構想する思想であるはずだという点です。
 上記の点は別として、講義での発言で、自分の本当に言いたいこと言うって難しいよなーと改めて思い出したのでした。

 休みに読みました。斎藤環さんが、古谷実の「稲中」で、あるキャラクターが自家臭妄想(自分が臭っているのではないかと常に気になる思春期の妄想)の反転したイメージより形象されていると話していたのを記憶しています。それが、非常に臭いのに本人は気づいていないというキャラクター。「稲中」って不勉強ながら読んでいないので、よくわからないのですが、古谷実のストーリー構築とか、キャラクター構築の方法って基本的にそこにあるような気がします。憶測ですが。
 たとえば、「自分に彼女なんて、まして凄くべっぴんの彼女なんてできるはずがない」と思っていたら、唐突にすごくかわいい彼女が出来てしまって、内気な青年は「世の中ってこんなものなのか?」と訝り、その認知的不協和を埋め合わせるように「なにか不吉な、不穏なことがおこるのではないか?」と考えるとする。
 古谷実の漫画って、その「不穏」で「不吉」なことが、かわいい彼女ができたのと同時に、スイッチがはいったように現実に駆動しだすというプロットが多い気がします。この恋愛と禍々しい事件の同時性が『シガテラ』でも本作でも見られる。どちらもこれまでの人生で未経験の出来事ゆえに、その恋愛と災禍は相乗効果的に非日常感を加速させる。しかし、ラストは『シガテラ』に見るように「不穏」で「不吉」なことは終息し、また傍らには「別の」愛する人がいるというふうになっている。