そこのみにて光り輝く⭐️⭐️⭐️

窮乏の末、家族のために、かごの鳥として身をやつす娘と、その娘に出会った訳ありの流れ者の恋愛模様、などとまとめてしまえば、極めて古典的とも言えるストーリーだ。その点に限れば、寅さんの第1作とかにだって似ていないか?と思うのは私だけだろうか。
小さな街で、ときには知り合いにも体を売って、生きている千夏(池脇千鶴)。「もうこんな仕事やめろや」と達夫(綾野剛)に言われ、「あんた何様、一回寝たくらいで、わたしと結婚でもしたいわけ?」と言い返す。ここら辺だって、古典的な<遊女もの>あるいは<身請もの>の遣り取りとも言えなくもない。この件があるので「この街出ようと思ったこともあったんだよ」という、その後、千夏が優しい口調で語るセリフが生きてくるわけであるが。
それ以外に、暗がりのなかで2人がスイカを頬張る音、畳直置きの焼酎や灰皿からこぼれたタバコの灰、そして、歯についたヤニなどおかまいなしに大きな口を開けて笑う拓児(菅田将輝)など、すさびあらびが隅々まで付着した、そんな世界観に奉仕するためのディテールの構築に、なみなみならぬ力が注がれているという印象を受けた。
終盤、拓児が「地元の権力者」である造園会社社長の中島(高橋和也)に傷害を加えるまでの演出も妙。顔に痣を作って戸口に立つ姉・千夏の顔を見、どこかしら、いつものにやけたような、かなしいような曖昧な表情を一瞬見せたのち、ふらふらと自転車をこぎ出し中島のまつ、祭りの行われている神社の境内にたどり着く。そして、そこでやはり再び侮辱され馬鹿にされ、ついには激昂し襲いかかる。このシークエンスの拓児の一連の行為は、淡々としていながら逆に、いいつくせぬ怒気を孕んでいるようで、素晴らしかった。
しかしながら、一種のレイプ・ファンタジーであるような、逆立したいやらしさを感じさせるところもある。時代劇と同じように、古典的ファンタジーでしかないのだと、この映画に感動した人こそ、心に留めておかなくてはならない。同じような状況を、例えば宮藤官九郎ならもっと秀逸にというか、クリティカルに物語化するだろう。