Fox Catcher⭐⭐⭐⭐

ネタバレご注意を!
エマヌエル・ロイツェの『デラウェア川を渡るワシントン』という、独立戦争を描いた絵画が画面に映り込む。その戦争に用いられた砲台が、建国の父たちの肖像画が、デュポンの所有する広大な敷地や邸内の暗がりの中から顔を覗かせる。これらのことからこの映画は、アメリカとはどんな国か、という問い自体を物語にしたものなのではないか、と誰もが気づくことになる。
上記のことと同時に、というか呼応するように、映画にはイギリス的なものも随所に現れる。題名にもなっている「キツネ狩り」、デュポンの母がのめり込むイングリッシュ馬術、「経済的に困窮するオリンピック覇者」というイギリス発祥のアマチュアリズムとその弊害。
物語は、オリンピックの金メダリストであるにもかかわらず、経済的に困窮しているマーク・シュルツというレスリング選手のところに、デュポン財閥の御曹司から支援の申し出が舞い込むところから始まる。ジョン・デュポンは広大な自分の屋敷をレスリングチームに提供し、マークを呼び寄せ、1988年にソウルで開催されるオリンピックに向けて、自らをコーチ(もちろん形式上)とする最強チームをつくり上げようと目論む。このチームの名前こそ「フォックスキャッチャー」だ。
かつてのイギリスの有閑貴族が、金と暇を持て余す日々の中で、擬似的な狩猟体験を楽しむべく興じていた「キツネ狩り」。新大陸の富豪のデュポンにとっては、シュルツらレスリング選手こそが、金メダルという狐を追い立てるために雇い入れた走狗だ。このジョンのふるまいは、どこか奇怪だが、やはりイギリス貴族の模倣、亜流のすぎないように見える。
さて、当初ジョンとマークは打ち解け、この世の蜜月を過ごす(変な意味ではない。たぶん。)が、のちに仲違い、ジョンはデュポンのもとを去るが、ジョンに遅れて入団したジョンの兄デイヴはとどまり、最終的にデュポンに殺される。
事件の後、マークは、UFCという総合格闘技の世界にたどり着く。そしてラストシーン。USAコールが鳴り響く中、マークの再生=独り立ち告げられていることに注意する必要がある。そしてそれは、極めてアメリカ的な、ショービジネスと結託したプロフェッショナリズムの舞台に置いて初めて果たされたことを、1つの神話的な象徴作用として、とらえる必要があるかと思う。