アポカリプト

アポカリプト [DVD]

アポカリプト [DVD]

 
以下、ネタばれ注意。
 ジャガー・パウはマヤ文明の辺境の森に住む狩猟民族の若き青年。ある日彼の集落がマヤ帝国の傭兵部隊に襲われ、男たちは生贄として、女たちは売買目的で捕えられ、都まで連行される。パウの妻と子は、村が襲撃された際、パウによってほら穴に匿われその難を逃れたが、パウ自身はつかまってしまう。
 マヤの儀式で、生贄の男たちは心臓をえぐられた後、首を切り落とされる。パウの順番が回ってきたとき、ちょうど日蝕(暗黒の昼)が起き、太陽神は満足したとマヤの祈祷師は判断した。儀式は終わりを告げ、生贄として用なしになったパウたちは、傭兵たちの狩りの標的として、その命を弄ばれることになる。
 しかし、その狩りから運よく一人森に逃れたパウ。それを追う傭兵たち。ここから疾走感あふれるシーンが続く。森を知り尽くした狩猟民族であるパウは、恐れから徐々に解放され、追跡者を一人また一人と消していく。
 ところで、ちょうどマヤ帝国へパウたち生贄が連行される道すがら、疫病に罹ったと思われる少女と遭遇するのだが、その少女は一行にある預言もたらす。それは以下のようなもの。

聖なる時は近い。暗黒の昼に気をつけろ。ジャガーを連れてくる男に気をつけろ。その男は泥沼の中から生き返る。その男がお前たちを殺し、世界を終わらせる。

 逃走する過程でこの預言は成就していき、パウはその成就たびに神々しくなっていく。
 そしてラスト。2人になった追跡者と海辺に出たパウが見たものは、十字架を掲げ、上陸しようとしているスペイン人たちだった。
 ざっとこんな内容の映画ですが、マヤの儀式の残虐性が映像的に強調されていたり、ラストのスペイン人の来航によってパウが命拾いするためか、この映画について、西洋の侵略行為を正当化するもので言語道断だ、とうことが一部では言われているようです。しかしそれは全く的外れな見方と言わざるをえません。スペイン人たちが直接的にジャガー・パウを苦境から救ったわけでもないし、たとえそのような光景が描かれていたとしても、その一点から、西洋の侵略行為を正当化しているという発想は出てこないはず。そのような見方をする人には、映画の何を見ているのか、と単純に怒りを禁じえません。
 そんなことよりも、私が重要だと思うのは以下のような点です。
 預言では「パウが世界を終わらせる」としていますが、パウがしたことは、事実性のレベルでは、愛する人のもとに帰りその命を救い、偶然にスペイン人と遭遇してしまっただけです。もう少し贔屓目に見ても、終末の予感を誰よりも早く察知しただけといえます。実際に、ここで言う世界を終わらせたのは、この映画の設定上やはりスペイン人ということになるのでしょう。
 しかし、預言の言うように「パウがこの世界を終わらせた」という言い方も可能なのではないか、と見終わった後に思えてくるから不思議です。世界という外部性(西洋の侵略や疫病の蔓延)を、ある人物がもたらしたと属人的に語る飛躍こそが預言であり、また、そういった預言を信じざるを得ないリアリティを生きている人々を描くことこそ、この映画の狙いなのでしょう。その、預言を信じざるを得ないリアリティとは、ネイティヴな想像力の次元であったり、またたとえば物語の中で何度か言及される「恐れ」などのことです。
 そのリアリティを描くことに成功している点で、メル・ギブソンは、西洋の侵略行為を正当化する立場とはもっとも遠いところでこの映画を作っていると言えるでしょう。
 ですから、私たちは何度も冒頭の言葉に帰らなければならないのです。確かに「文明は内部から崩壊した」のだと。